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ずばり、親子です。肉体的には、目の前の父親、母親から生まれますが、その命の元を授けて下さるのは神様だからです。

人は、ある年齢になると男性ならば、  精子  女性は、初潮を迎えて、赤ちゃんを授かることの出来るように、自然と身体が変化していきますね。

ホルモンの働きとも言われますが、そうした身体の変化を与えて下さるのも神様のお力です。 

確かに男女の交わりで、受精したときに子供が出来ますが、「その精子は誰が作ったの? 卵子は誰が作ったの?」と問われると答えられますか。そして十月十日(とつきとおか)お母さんの体内にいて、人の身体と心を持って生まれてくる・・一個の受精卵からどうして人の身体になるの?

心臓や肺や、また目や耳や手足を作ったのは、誰? それが神様です。目の前のお父さんでも、お母さんでもありませんね。

人は神の子と言われるのは、もっと色々な意味からですが、『神の子』として誕生した子を、「自分の子なんだからどうしようと自分の勝手」ということ自体、本当は「神をも恐れぬ行為」ではないでしょうか。

子供は、天からの授かりものであり、神様からの預かりものです。大切に育てて行きたいものです。

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確かに人生には、浮き沈みがあります。「良い時三年、悪い時四年と心得、その悪い時は、次の機会に備えての学びの時と心得られるがおよろしかろう」とは、弘法大師様のお言葉ですが、人生には何かを恨みたくなるようなことに出会うことも少なくありません。ですがその思いに流されていると、どんどん自分の心も人生も落ちていってしまいます。



神様は『恨み、恨まる、共に罪』と言われます。それは恨む人も、恨まれる人も、共に神様から見たら罪だということです。



でも恨むこと、人のせいにすることをやめようとしても、なかなか自分の心から出て行かないとしたら・・自分の目線をなるべく大きなところに持っていくことです。人のせい、世の中のせいにしている間は、絶対に人生は開けません。



閉じこもっている人の共通点は、必ず人のせいにする、親のせいにする、周りの人のせいにする、そして狭い部屋の中から身体も心も出ようとしません。


同じ人生ならば、殻に閉じこもるのではなく、自らの殻を破り、そして大きく成長した自分をもって、世の中に貢献すべきではないでしょうか。



むかし、弘法大師様が中国へ渡られた時の師と言われた恵果阿闍梨様は、次のような例でお諭し下さいました。「近頃の人々は、何事も他人のせいにしがちですが、そうではありません。すべては、ご自分に起因していることに気づくべきです」とおっしゃって、水の入った湯飲みを取り出され、そこに墨を一滴垂らされました。すると水は黒く濁ってしまいました。



「皆さんが、この湯飲みのような器になっていますと、直ちに外からの影響を被ってしまいます。しかし、皆さんの器が、たとえ小さな小川であっても、水が流れていれば何の影響も受けないのです。墨を垂らすことは同じであっても、瞬時に押し流してしまいますので、なんらの影響も受けません。



たしかに近頃ではよくない心がけの方が増えましたので、中にはその小川に石を投げ込んだり、木で堰止めをしたりする者がいるかも知れません。その時でも、あなたが黄河や揚子江のような大河の器になっていれば、どんな大きな岩で邪魔をしようとしても、その岩をも押し流すことが出来るのですよ。要は、あなたの器次第と言うことではありませんか。決して他人様のせいではありませんよ」と言われたのです。もって銘記して下さい。


大神様のいらっしゃる高天原の中心精奇城(さごくしろ)というところは、塵一つあってもいけない黄金の世界です。ですから、そこでお仕えしている人たちは、ほんのわずかの汚れ穢れでも、神様の世界に住むことはできないのです。その汚れ穢れを取り除き、魂を磨く場として、私たちは修行のために人の世に送られて来るのです。だから、人生は修行の道場なのです。



ですから、人生での修行を終えて、神様の世界に戻ったときに、何をもってお仕えするかということが、大切なのです。そのための磨きの場として人の世に送り出されたのですから、人の世を安楽に、好き勝手に生きればよいとする現代の風潮は大いに異なることになります。ここに人の世の生き方の大切さがあるのです。人の世を終わってから、「こんなはずではなかった」と後悔しても、それは後の祭りです。



宮大工さんとして有名な西岡常一さんなどは、神様の世界に戻られても神様の宮殿を作る仕事につくことができます。再び高天原に戻ったときに、何をもってお仕えするすることが出来るかが、最も大切なことになります。職業選択の自由などと言っておりますが、よくよく考えた上での職業選択でないと、神様の世界に戻ったときに、失業ということになりかねません。



また、神様にお仕えする以上、嫌々というわけには参りません。人の世界にいる間に、『何事も、自主的・積極的に、喜びをもってする』という習慣を身につけておかれることが大切なのです。


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