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神様のお名前が次々と出てくると、皆さんは難しいと感じられると思いますが、お名前は覚える必要はありません。何回か聞いているうちに、自然に覚えますから、無理に覚える必要はありません。



山幸彦様(火遠理命様・別名穂々手見命様)と結婚された豊玉姫との間に生まれたのが、鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)様です。



鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)様は、お生まれになるときに、まだ産屋の屋根の葺き替えが出来終わらず、大急ぎで屋根を鵜の鳥の羽でおおった中で誕生されたところから、このお名前がつきました。



昔は、人の生死をとても神聖なものとして扱っていました。今では、とても考えられないことかもしれませんが、人が亡くなるときには喪屋を作り、誕生するときには産屋を住まいとは別に建てて、そこで亡くなった人をお送りしたり、赤ちゃんの誕生を迎えたりしたのです。



豊玉姫は、その出産の時に、産屋がまだ出来ておりませんので、山幸彦様に、「自分がお産をする姿を見ないで下さい」と申し上げたのですが、人は「見るな」と言われると見たくなるのですよね。黙っていればよかったのですよ。わざわざ「見ないで下さい」と言うから、覗き見をしたくなるのです。



そうすると、産屋の中で豊玉姫様は、鰐の姿でのた打ち回っているところを見られてしまったので、豊玉姫は泣き泣き竜宮城と言いますか、海の中に帰ってしまわれたのです。



その時に、「産まれたこの子が育たないといけない」というので、自分のお乳を岩にくっつけて帰っていったというのが、鵜戸神宮にある『お乳岩』で、今でもそこから水が滴り落ちております。



宮崎地方では、そのお乳岩の水を使った『お乳飴』を、出産の時に舐めると、


「お乳がよく出る」ということになっていますし、地元では『鵜戸さん参り』と言って新婚さんはしゃんしゃん馬に乗って、鵜戸神宮を参拝する風習があり、このことが民謡にも歌われています。


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前回の23話の続きです。



「井戸のそばの桂の木の上に、りっぱな男の方がいらっしゃいます。その方の首飾りの玉が、器の底にくっついて取れないのです」という侍女の報告を聞いて、不思議に思った豊玉姫は、ご自分でも井戸のそばまで出てきました。



そして一目見て、「ほんとうにご立派な方」と思って、お父さんの神の神様である大綿津津見(おおわだつみ)の神様に入らせに行きました。



お父さんも早速出てきて、「あぁ、あの方は、日の神様の子だよ」といって、山幸彦にていねいに「どうぞお入り下さい」と御殿の中に招き入れて、大変な歓待をしてくれました。



山幸彦は、綿津見の宮の客になって、泊まっていましたが、綿津見の神様が「娘をあなたのお嫁さんにして下さい」と頼みました。


そこで山幸彦は、豊玉姫と結婚して、そのままずっとそこで暮らしているうちに三年の月日が経ちました。



ある晩に、山幸彦は自分の国を思い出して深いため息をつきました。「ここにずいぶん長く住んでしまった。あのお兄さんの釣り針はどうなったことだろう」と、お一人で考え込んでしまいました。



次の朝、豊玉姫は気になって、お父さんのところへ行って「あの方は、いままでずっと本当に楽しく、暮らしていらっしゃいました。それなのにどうしたことでしょう。昨晩はため息をついて考え込んでいらっしゃいました。何か心配事が、おありなのではないでしょうか。」と相談しました。



お父さんもそれを聞くと心配になり、山幸彦をよんで「娘が言いますには、あなたはゆうべため息をなさって、考え事をしていらっしゃったそうですね。何かわけがおありではございませんか」と尋ねました。わけを聞かれて、三年前にここに来たわけを、はじめから詳しく話しました。



それを聞いた、大綿津見神様は、海の神様ですから、早速、海の中の魚達を集めて、「だれか、釣り針を飲んでいるものはいないか」と尋ねてくれました。すると魚たちは「この間、鯛が、のどに何かが刺さって困っていると言っておりました。あの鯛をお調べになってはいかがでしょうか」と言いました。



そこでその鯛を呼びよせて、のどの奥を調べてみると、なるほど一本の釣り針が刺さっていました。大綿津見の神様は、その釣り針をきれいに洗って、「この釣り針でしょうか」と山幸彦に渡しました。



「おお、これです。見つけて頂いてありがとうございます」と山幸彦は、喜んでお礼を言い、お兄さんにそれを返しに行くことになりました。



そのとき大綿津見神様が、二つの玉を取り出して、山幸彦に手渡し、こう言いました。「これで承知をしてくれればいいですが、釣り針のことで、あれだけ厳しく言われたお兄さんのことです。いろいろとこの先も、意地悪をされるかも知れません。この二つの玉をお持ちなさい。



もしお兄さんが、貴方に意地悪をしたり、攻めて来ようというときには、こちらの『潮満珠』という潮が満つる珠を使いなさい。そうしたらあっという間に海の水が満ちてきますよ。それでお兄さんを溺れさせてやりなさい。そしてアップアップ溺れて「助けてくれ」とおっしゃったら、こちらの潮が引くという珠を使って、水を引かせて下さい。この中にはいくらでも水が入ります」



山幸彦は、二つの玉をもらって、お兄さんのいる国に帰っていきました。



実際に攻められたときに潮満珠と潮が引いていくという珠の両方で操作をする。それでお兄さんも、これは叶わないということで、以後は臣下の礼を取るということになります。自分が本当はお兄さんなのだけれども、「あなたの言うことを聞きましょう」と言って、そのときの溺れかけたときのしぐさが、今でも宮中での舞いの中にとり入れられています。



これは何を意味するかというと、海幸彦は、海で仕事をする。山幸彦は、山で仕事をするということが大事ですよという事の裏返しなのです。



だから隣の芝生ということでよく言われますけが、人の仕事が良く見えたとしても、自分の適性は何なのかという事をよく見て行かないと、いけませんよということがこういった神話の中、古事記の中に既に書かれているのです。



ですから海幸彦は海での仕事、山幸彦は山での仕事に専念しなさい。人にはこういう向き不向きがありますよという、最初の出だしで申し上げた適性に関する話が、既に神代の話の中にあるのです。



もう一つには、無理を言って借りた釣り針を無くしてしまった山幸彦も悪いのですが、『相手の過失を、いつまでも咎める』ということは、神様のご意図ではないと言うことです。



それもこのお話の場合のように、海に落としてしまった釣り針を取り戻すなどと言うことは、普通なら絶対に出来ないことを、相手が悔いて、謝っているにもかかわらず、どうしても取り戻せと、ごり押しすることはしてはならない日本人本来の寛容の精神にもとるという教えでもあります。



それをしたために、お兄さんは本来は兄の立場なのに、弟と立場が逆転してしまうことにまでなっています。そして自分だけでなく、お兄さんの子孫は、後々まで海でおぼれる仕草の踊りを踊る役目になってしまったのですから。



        今日の一言は、


 956話 今日は、敬老の日 です。


http://soseinippon.way-nifty.com/blog/



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古事記の中から、海幸彦・山幸彦の話をさせて頂きたいと思います。



天孫降臨の邇邇芸命(ニニギのみこと)様そして木花咲耶(このはなさくや)姫。木花咲耶姫というのは浅間(せんげん)神社のご祭神です、富士山です。日本一の富士の山、木花咲耶姫様は、日本一の美人であるとも言われています。



このお二人の仲にお生まれになったご長男が、


火照命(ホデリのみこと)です。


そして次男が火須勢理命(ホスセリのみこと)、


そして三男の方が火遠理命(ホオリのみこと)で、別の名前を穂々手見命(ホホデミのみこと)様とも言います。



火須勢理命様は名前が一ヵ所出てくるだけで、後は何も分かりません。何をされた方かも書かれておりません。そして火照命様と仰る方、この方が海幸彦です。火遠理命様が山幸彦です。海幸彦・山幸彦は、このお二人の間でのお話です。



それでこの山幸彦の神様が狩猟に出かける。鹿とかイノシシとかそういった動物を捕らえに行く。そして海幸彦の方は毎日海へ出て魚を獲っていました。



ところが火遠理命、山幸彦様が、「毎日毎日同じことをやるのだから、たまには、お兄さんの釣り竿と、私の弓矢を交換して、いつもと違うところで猟をしてみませんか。一度交代してみよう」という事を申し出るのですが、海幸彦は、「私は、海で釣りをするのが合っているよ。山に行きたいとは、思わない」と、中々言うことを聞いて下さらなかった。



しかし山幸彦が、余りにも何度も言うものですから、「じゃあ、一度だけだよ」と言って致し方なく、ある日交代をするわけですね。それで海幸彦の釣り道具一式、そして山幸彦の狩猟、弓矢でしょうね、昔ですから。鉄砲はまだなかったと思います。そういったものと交換をしました。



ところがその日は山へ行った火照神様、海幸彦も何一つ狩猟が出来ない。そして火遠理命様の山幸彦も魚一匹も釣れない。そして最後にお兄さんの大事なつり針そのものを無くしてしまいます。



そしてお互いに何の獲物も獲れませんでしたよということで、交換をするときに「実は、針をなくしました」ということを、山幸彦が言うと、お兄さんが大変に怒ります。



そこで自分の刀を釣り針に変えて五百針を作って渡すけれども、ウンと言ってくれない。更にもう一つの刀で五百を作って千にして返すけれども、ウンと言ってくれないということで、山幸彦は途方にくれて、海辺でしくしくと泣いておられた。



そこに塩土(しおつちの)神様が来られて、「なぜ、おまえはそんなに泣いているのか」と聞かれたので、山幸彦は、訳を話します。



「私は、兄の大事な釣り針を海になくしてしまいました。お詫びに、千本の釣り針を作って渡しましたが、もとの釣り針でなければダメだとどうしても兄は許してくれないのです。この広い海の中で、どうして小さな釣り針を見つけることなど出来ましょうか」と。



そうしたら塩土の翁は、「この小船に乗りなさい」と言って、小船に山幸彦を乗せて、力一杯後ろから押してくれました。そしてこう言います。「それで小舟の進むままに任せて流されていくと、海の中の道が現れます。それに従って、暫くいくと、あるところに着くから、そのときにはそのお屋敷の所にある井戸、そのそばにある桂の木に上っていなさい」



実際に山幸彦は、竜宮城のような立派なお屋敷の所に到着します。そして言葉の通りに井戸のそばに桂の木がありました。山幸彦は、言われたとおりに、その木に登ってしばらく待っていると、おそらく侍女そういった方が井戸の水を汲みに来ます。その井戸に山幸彦の姿が映っていました。



山幸彦は、「井戸の水を一杯下さい」と頼み、自分の玉飾りを口に含み、ぷっとその器の中に入れます。女の人は、驚いてその玉飾りを取ろうとしますが、入れ物のそこにぴったりとくっついて離れません。



そのままお家の中に入ってお姫様にそのことを報告します。これが豊玉姫(とよたまひめ)なのです。   24話 に続きます。



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今日は『人の本質』について、「人は何故生まれ、どう生きるべきか」というお話をさせて頂きます。



結論から言うと、人は『天命に生きるのだ』ということす。


天命は天から命じられた『使命』と、天から与えられた『寿命』の二つの意味があります。各人が与えられた寿命の範囲内に、果たすべき使命を全うする。これが大切なのです。



しかし自分の使命が何だか分からないままに、人生を過し、そのままこの世を終わってしまっている人が多いのです。



現代社会そのものが、根本的に違っている事は、一体何なのだろうか。学校教育においても、いわゆるテストの成績のいい人が、頭のいい人であり、いい人だとされていることです。



テストの成績が悪いと、「あの人は馬鹿だ」とか、「落ちこぼれだ」というふうに、人の価値を、成績で決めていることが、一番の原因ではなかろうか。



頭が良くても、法の目をくぐって悪いことをする人の方が、最も悪いのだけれども、一般の評価は、学校のテストの成績で評価をしています。



むしろその人の適性が何なのかという方向に目を向けて頂きたい。しかしそういった事は全く検討されていない。その人は何が適性なのか、何に向いているのかという事には、全く目を向けられていない。人格形成についてこそ、教育者が最も意を用いなければならないことなのです。



皆さん自身が振返ってみて、「貴方は何に向いていますよ」と言われた経験のある方がいらっしゃいますか? 多分いないでしょう。



駄目なことは言ってくれるけれども、いいことは言ってくれないのです。それが現在の世の中を作っているのだということに、もう少し皆さん自身が目を向けて頂きたい。


悪いという方は指摘されるが、貴方はこの方向に向いているから、そちらに進みなさいとは誰も教えてくれないのです。これが現代社会を構成しているのです。



だから今の世の中は、テレビでも、人の欠点は「ああだ・こうだ」という番組は一杯あります。しかし、こういうことをするといいのですよという番組は殆んどないのです。



世の中自体がそういうふうに動いている。世論の旗振り役のマスコミがそういうものしか作らない。世の中を良くしようという意図のマスコミの人が居ない。スポンサーにしても、「よくあんなくだらない番組に金を出すなぁ、広告を出すなぁ」と思う。



少しでもいいから世の中の役に立つような番組制作にお金を出しましょうというのならいいけれども、くだらないミーちゃん・ハーちゃんと、とにかく変わっていれば番組に出られるという世の中です。いい番組には中々金を出さない。またいい番組は皆さんが見ようとしないという時期になっております。



そういった意味でも皆さん自身が、自分の適性は一体何だろうかと考えて頂きたい。自分は何に向いているのだろうか。自分の適性は一体何なのだろうかと考え直して頂けたらと思います。



本来は十五歳までに、自分は将来何になるべきかということが分かるようにしておきたいものです。しかし今は中々そういうことは難しい世の中です。「貴方の今の成績なら、この学校なら受かります」という今の制度では、進学はしてみても、一学期で退学してしまうという実態をよく見て頂きたい。



先生は、わずかの期間であっても、生徒さんの人格形成に携わっているのだから、単なるサラリーマンではなく、聖職者であって欲しい。教え子の将来をも見守ってあげられる人であって欲しいと思います。


そして教え子が、寿命の範囲内に使命を全うすることが出来る人生を送れるようにしてあげて欲しいのです。そうすれば、みんなが豊かで幸せな人生を送ることが出来るようになると思います。



次回は、海幸彦と山幸彦の話です。この話から天命を見てみると・・?


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