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節分というと、二月の節分の豆まきが有名ですが、本来の「節分」は、四季を分ける全ての時にあります。つまり一年に四回あり、立春、立夏、立秋、立冬の前日が節分にあたります。

昔は、『神迎えの神事』として、それぞれの節分には、春の神様、夏の神様、秋の神様、冬の神様を各家にも、それまでの季節の神様にお礼を申し上げ、そして新しい季節の神様をお迎えする行事をしていました。

日本は四季があり、それぞれの季節を大事にして、その季節と共に自然と共に過してきました。今は、冷暖房完備で季節の変化を感じにくいのですが、季節を愛でることは日本人が昔からしてきた習慣でもあり、自然を肌で感じる事で魂の感性もずっと良くなっていきます。

「季節の訪れと共に新たな神様が来られる」「自然の中に神様はいらっしゃる」それをお迎えしないで、気がつかないまま、心を荒ませているのが現代人かもしれません。ご存知の方は少ないかもしれませんが、伝統あるお家は、実は今でもこうしたことをちゃんとしています。

歳神様をお迎えするのは、本来はその家の床の間にお迎えします。家に床の間のある家の場合、春の神様、夏の神様、秋の神様、冬の神様をやはりそこにお迎えして、可能であれば、掛け軸をこのとき(お迎えする前に)に掛け替えることなどをされたらよいと思います。

掛け軸には、一般にお正月や結納などのおめでたいときに掛ける掛け軸と、普段の時に掛けておく山水画などがありますが、四季を表わす掛け軸もあります。

掛け軸を、ただ床の間を飾るものとして捉えていると、どんなものでも良いようですか、本来はそこに来て下さる神様にふさわしいものが良いのです。

四季の掛け軸には、春にふさわしい掛け軸、夏にふさわしい掛け軸、秋にふさわしい掛け軸、冬にふさわしい掛け軸があります。よく掛け軸で、四季の花、全てが描かれているものがありますが、それはやめた方がよいです。

四季の花が一斉に咲き乱れたら、それは狂い咲きです。自然を乱すようなことをせずに、自然をそのまま受け入れ、感謝して過す。これは日本人が昔からしてきたことでもあります。それぞれの季節にはその季節の神様の恵みを受けて、その季節を彩る独特の花が咲きます。そう考えると心豊かになると思いませんか。

しかし四季毎に、掛け軸を掛け替えるのも大変なときには、ハレの日、普段の日に分けて、おめでたい絵柄の掛け軸と、普段に掛けておく山水画の掛け軸などにされたらよいと思います。

要は、真心を込めて神様をお迎えする事が大事で、無理をせずに、しかし最大の真心を込めてさせて頂くことです。

そして、年四回の節分には、季節の神様にご挨拶をしています。

神迎えの神事というと大げさに聞こえるかもしれませんが、要は神様をお迎えする心があるかどうかが大事なのです。

「神の国、日本」と言って、総理の座を追われた方もいらっしゃいますが、自然の中、季節の中に神様を感じ、心豊かに過していくこと、そんな神の国で過ごせる人でありたいものですね。

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新たらしい年を迎えたと思ったら、あっという間にひと月が過ぎようとしています。



新しい年を迎えるときに、松飾りを飾って『歳神様』をお迎えしましたね。


歳神様は、松の内だけその家にいて下さるのではなく、その年一年その家に起るいろいろなことを守ったり、良い方向に導いて下さるとお伝えしましたが、もう歳神様が家にいて下さることも忘れて、好き勝手をしたり、不平不満が出たりしていないでしょうか。



新年にお願いしたことは、人の方が忘れてもご担当して下さる神様はずっと忘れず見守っていて下さっています。神様と共に過し、神様と共に行動すれば、こんなに強い味方は無いはずですが、実際はなかなかそうはいかない・・のは、人の側が神様のことを忘れて、わがままや怠け癖などを出しているのかもしれませんね。



新しい年を迎えて、半月以上過ぎたところです。一度見直して見られてはいかがでしょうか。




ところで、それぞれの月にも、その月をご担当する神様がいらっしゃるのをご存じでしょうか。一月には、一月を担当する神様が、二月には二月を担当する神様が、三月には三月を担当する神様がいらっしゃいます。



それぞれの月には個性があると言うとおかしいですが、一月は一月の、二月には二月の個性があります。それは二十四節気とも深い関わりがあります。



一月は、お正月、松の内があり、一年中にでも格別のものがありますが、二十四節気の小寒、大寒があるように、『寒』が深まる時、つまり寒さが厳しくなっていく、そしてその中に神様の恵みが込められていく月です。



お正月には、(暮れについた)お餅を食べますが、年が明けて小寒の時にも、『寒餅』をついて神様にお供えし、それを食べるとその年一年風邪を引かないなどと言われています。年が明けてからついてお供えした寒餅は、不思議なことにお正月に食べるお餅とは、何か違うのです。それは神様の込められているお力の違いによるものではないかと思います。



二月は、一般に一年の中で一番寒さが厳しいように感じますが、実はその中に既に春の力が秘められています。二月四日は、二十四節気の立春です。



寒さ厳しく、物事に動きがない時期のようにも見えますが、実はこの時期は神様のお力が大変に強く働く時でもあります。立春は、神様の世界のお正月と言われ、その日を出発点にして、一年の力が巡ります。



茶摘みの時期を表わす「夏も近づく八十八夜」や、台風の時を表わす、「二百十日」「二百二十日」なども、元旦から数えてではなく、立春の日から数えてのことです。



一月の最後の日には、一月の神様にお礼を申し上げ、そして二月一日には、二月の神様にご挨拶したらよいと思います。同じように、それぞれの月の切り替えの時にもその月の神様に「ひと月ありがとうございました」とお礼を申し上げ、新しい月の神様に「これから、ひと月よろしくお願い致します。」とご挨拶して、神様からの後押しを頂いて、力強く過されたらよいと思います。


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「鬼は、外! 福は、内!」



二月三日の節分には、神社仏閣などでも、その年の有名人の年男が盛大に豆まきをします。



「鬼は、外に追い出して、福はわが家にドンドン来て欲しい。」だから節分にはそれぞれの家でも、炒り豆を買ってきて、豆まきをする習慣があります。



ですがこの豆まきは、実はしてはいけないことなのです。生の大豆ではなく、「炒り豆」であることにその意味があります。「福を呼ぶつもりでしている事」が、実は、神様に対してのとんでもない失礼になっていますので、そのことをお伝えしたいと思います。



実は、豆まきの時に言われる「鬼」と言われているのは、「大神様」の事だからです。「鬼」と言われるのは、本当に「悪い鬼」の場合がほとんどですが、神様がお怒りになられたときのお姿も『鬼』という言い方をすることがあります。



世の中には、残念ながら悪魔や悪いものなどはいます。それを叱ったり、退治したりするときの神様のお顔は、大変に怖いもので、それを(悪ものの)鬼が震え上がって退散するほど怖い『鬼』というのです。



『神の子、人』と呼ばれながら、人は、長いその歴史の中で、次第に神様から離れて、今は神様に通じることが出来る人が本当に少なくなってしまいました。しかし、かつて神様と本当の親子として、お姿を見、お話しも出来て日々通じ合うことが出来た時代がありました。



その頃の人は、『神人(しんじん)』と呼ばれていました。それが「神」の字が取れてしまった「人」となってしまいましたが、それでも互いに支え合えという意味で、「人」という字を書きました。今は神様と人の間が出来てしまった「人間」になってしまいました。間が出来てしまったのですから、神様と通じることも出来なくなり、だからこそ神様の側からは、「早く神との間を抜け、間を抜け、間抜け」と言われました。「間抜け」とは、人同士で言う言葉ではなく、神様が人に向っておっしゃられる言葉です。



その「神人」の時代に、天地創造の大神様が、大宇宙にお出かけになられるご用が出来ました。(大宇宙を作られた神様ですから、地球だけにいらっしゃるのではなく、広い宇宙の全てを見ておられます)



それまでは貴い神様のご威光で、ほとんど悪いことも出来ず隠れていたもの達が、これで大神様に叱られることもないとばかりにはしゃぎました。



その時に大神様は、お尋ねになりました。


『われは、いつまで大宇宙に行っていればよいかの』



それに答えて、悪いものたちは「炒り豆の花の咲くまで」「炒り豆に芽が出るまで」と言いました。



炒り豆に芽が出ることも、花が咲くことも絶対にありません。つまり「絶対に返ってくるな」と言ったのです。更に炒り豆を投げて、「鬼は、外!」とはやし立てることまでしたのです。



それが節分の豆まきの始りです。現在は、決してそのような神様に失礼をするという気持ちで豆を投げてはいないと思いますが、それが始まった元は何かを考えますと、人類が根源の神様にしている大きな失礼の一つであることに変わりはありません。



節分の豆まきの習慣は、「今まで知らぬ事とは言え、神様に大変な失礼をいたし、申し訳ありませんでした。」といったん全て取りやめ、その上で数年の間を置いた後に、「改めて、(本当の悪い)鬼を追い出し、各ご家庭にも福を招くことが出来るように『鬼は、外!、福は、内!』と豆まきをさせて下さい。」と願い出るべきではないでしょうか。

        今日の一日、一言は、


1074話 たくさんの知識を得た人よりも


http://soseinippon.way-nifty.com/blog/


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成人式、おめでとうございます。今日から大人の仲間入り・・



大人になると言うことは、今まで制限されてきたこと、たとえばお酒などもおおっぴらに解禁でもあり、ある意味で自由?になります。



しかし大人になるのは、同時に責任も加わるということです。


一般的に言われる「犯罪を犯したら、実名が出る」と言うような責任だけでなく、『人生に対する責任、自分が果たすべき使命』に対しての責任も加わります。



ところで現在の成人式は、二十歳ですが、かつて武家社会では、十五歳になると『元服』の儀式を執り行い、大人の仲間入りをしました。



現代の成人式よりも、五年も早いのですが、神様からご覧になられたときには、実はこの「十五歳で成人」が本当なのです。



人の天命は、出産の時までに八割くらい決まり、その後三歳で「三つ子の魂、百まで」と言われる魂を加えて頂き、そして十五歳の時に、天命を知る年と言われています。それに向けてはっきりと歩み出す年だからです。



人の身体には、六十兆の細胞があると言われています。誕生してから十五歳までに次々に細胞の数が増えて、十五才頃にその六十兆の細胞になるそうです。



『細胞の一つ一つも、神様である。』というと、にわかには信じがたい、ピンときにくいかもしれませんが、その人の人生に必要な神様が、そろわれるのが十五才なのです。




成人式が、一月十五日でなくなってからもう十年くらい経ちます。


政府の方針で、祝日と日曜日を続けて、連休を増やすために、成人式は一月十五日から第二月曜日に変更となったからです。



しかしその切り替えの年、「荒れる成人式」という言葉で報道されたほど、成人式の会場で、奇声を上げたり、式典を遮ったりする若者が続出しました。



その時には、「年だけ二十歳になっても、大人になる資格はない」「身体だけ大人になって、心はまるで育っていない」とほとんどの人は見ていた事と思います。



確かに精神的に成長していないから、式典の秩序も守れなかったということは否定できません。



しかしその根底にある理由は、日にちが十五日から別の日に変更になったことにあります。もともと「十五」という数字に大切な意味があります。



言霊(ことだま)は、皆さん聞いた事があると思いますが、数にも意味があり「数霊(かずたま)」と言います。易などでも、お名前の画数等で数を使って占いますが、ここでは神様から教えて頂いた数の意味をご紹介します。



一 二 三 四 五 六 七 八 九  十


ひ ふ み よ い む な や この たり(と)



と読みます。そして一(ひ)から七(な)までは、(ひな)=雛であり、


八で開けると言う意味になります。



そして九は、宮中を表わし、十は、神を表わします。



さらに五を中心に、四と六=十、さらにその隣は、三と七=十


更に隣は、二と八=十 その隣は、一と九=十  全て十=神になります。



その神々様の中心として、五は大神様を表わします。



十五とは、大神様と神々様の数字であり、だからこそ人がこの世に生まれてきた大事な意味に通じる「天命」に関わりがあるのです。



本当に「天命」などについて知りたい方は、講演会などにご参加頂ければと思いますが、ここでは「十五才は、天命を知る年」であり、神様からご覧になられて、以後成人(大人)としての扱いになります。


 


*今年の小田原講演会は、「天命」を中心にした話を予定しています。*



本当は、成人を二十歳まで待つのは大変にもったいないことです。生まれながらの天命を知りそれに向けて動き出さなければならないのに、そうしたことも知らずに二十歳までの貴重な五年間を過してしまうからです。



しかし神様も人の世界の事はご存じですから、十五日の成人式の時には、十五という数字で、その天命に通じることが出来、成人としてのお力も入れて頂いていました。



それを人の側で連休を増やすために、あるとき突然にその日にちをずらしてしまった為に、成人式が荒れたのです。



「未熟な若者」とか、「大人になれない成人式」などと揶揄されましたが、本来の魂が「これはおかしい!」と反応したとも言えます。



今年成人を迎えられる方で、気になられる方は、役所などの式典とは別に、十五日に改めて神社に行かれたらよいと思います。もともと天命に関わる元服は神様にお願いするものですし、かえって素晴らしい成人としてのご出発になられると思います。



源氏の大将、源の義家公も、京都の石清水八幡宮で元服をし、以後「八幡太郎義家」と名乗り、歴史に残る活躍をされました。



どうぞ素晴らしい成人式、素晴らしい人生となりますように。



        今日の一日一言は、


 「第1067話 気づきが、人生を変える」


http://soseinippon.way-nifty.com/blog/



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明けましておめでとうございます。


本年も、どうぞよろしくお願い致します。



*********************


  


お正月に飾った鏡餅は、「鏡開き」をしてから、お汁粉やお雑煮などにして食べます。



鏡開きは、武家の風習から始まったもので、切腹などに通ずる餅を「切る」という言葉を避けて、木槌などで「開く」ようになったとされ、お正月に供えて「歳神様のお力の籠もった鏡餅を頂く事で、一年の無事息災を約束される」と言われています。



一般に鏡開きは、十一日にすると思われています。


もともとは二十一日に鏡開きをしていましたが、徳川三代将軍家光が四月二十日に亡くなったので、この日を避けて十一日に鏡開きをするようになったからだそうです。



しかしこの元々にしていた『二十一日が、鏡開きをする日』です。その理由をお話しします。



鏡餅は、上と下に重ねて床の間などに飾られた丸餅です。


そこに神様の元旦から二十日まで、神様のお力が入られます。



神様の世界には、太陽系(日)の神様と月系統の神様がいらっしゃいます。


その両方の神様のお力が合わさることにより、新しい力がそこから生まれ、そして昼と夜、陰と陽の両方に神様のお力が、あまねく行き渡るようになります。



鏡餅には、そのお力が込められています。



「数」にも、大切な意味があり、「十」という数は、「神様」を表わし、「二十」は「二重の」という意味があり「神々様」を表わします。


(詳しく知りたい方は、講演会などにお越し下さい)



十日までお供えして、十一日に鏡開きをしてしまうと、その片方の神様のお力しか頂くことが出来ません。鏡餅の上のお餅には、太陽(日)の系統の神様のお力が、下のお餅には、月の系統の神様のお力が入られます。



ですから二十日までお供えして、二十一日に鏡開きをして下さい。



しかし、いきなり木槌で、鏡餅を叩き割ることをしてはダメです。そんなことをしたら、鏡餅に込められたお力を頂くことは出来ません。



そしてその鏡開きは、一家の誰がしても良いのでは無く、「家長」(社長)が行ないます。その人が行なわない限り、神様からその力を頂くことが出来ません。



家長(社長)となる方は、鏡餅に込められた神々様のお力を頂き、さらにご家庭や会社内をいかなる時も、明るく照らし、統率することが出来る力を発揮していくためです。



中心があって、秩序も保てれば、組織も整います。


宇宙の法則を見ても、私達の太陽系でも、太陽を中心にしてそれぞれの惑星が巡ります。一家の中でも、「家長」(会社では、社長)となる人が、中心となり家族に力と光りを与えて束ねていくのが、本来の姿なのです。



家長(社長)は、鏡餅の前に正対して、柏手を打ち


「ただ今から、鏡開きをさせて頂きます。家長として(社長として)責任を持って、家族(社長)を束ねていくことが出来る為にもどうぞよろしくお願い致します。」とご挨拶をして、その鏡餅からそのお力を頂くために、気持ちを鎮めて向き合って下さい。



本当の意味で、鏡開きの方法は、言葉だけではお伝えしきれません。直接お会いしてその呼吸をお教えしなければ初めての方は、出来にくいかとは思いますが、少なくとも謙虚にそして真剣にそのつもりになってご挨拶して下さい。




どうぞ良い一年にして下さい。


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