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「神道とは何なのか、皆さんが理解しておられる神道を、お伺いしてみたいと思うのですね。神道というと、何を思いだされますか。
 難しく考えないで、思いつくまま答えてみて下さい。」

こうお聞きしましたら、

「子供の頃から、太陽であり水であり、自然というイメージがあります。」
「神社や神棚でしょうか。」
「宗教の一つ」
「太陽みたいなもの・・」

「では神社とは?」とお聞きしますと
「年一回、初詣に行くところ」
「七五三の時に、行くところで、子供が千歳飴をもっている」
「受験の時に、合格祈願の絵馬を書いた覚えがあります」


一般的には「神道とは」と聞かれると、多分神社とか、お家の神棚というイメージがあるだろうと思うのですが、最近はお家で神棚もあまり祀っていないので、そのイメージも少なくなってきているようです。

そして神社も、昔は村祭りなどがある度に、鎮守の森へ行ったのですが、最近では多分正月の初詣に行くかどうかだろうと思うのですね。だから逆の意味で皆さんもイメージがわきにくいのです、神道と言われても。神社のイメージさえ出難いという時代になってきているのではないかと思います。

 では「神道とは、一体どういうものなんだろうか」ということで見ていくと、一般の人は多分宗教だと思っているのです。殆どの人が宗教だというふうに言われます。

ですから「神道は、宗教ではありません」と私の方で幾ら言っても、「手を合わせて拝むものは、みんな宗教でしょ」「神様、仏様といったら、当然宗教じゃないですか」と思われてしまうのですね。

でも違うのです。

まず神道と宗教の違いをお話ししたいと思います。
宗教とは、「教えるのを宗とする」と書きます。ですから教える人と教える材料が必要になってきます。

だから宗教というふうに捉えると、誰が教えたか。教える材料としてどういうものがあるかということが必要になってきます。したがってキリスト教はイエス・キリストという人が教えて、旧約聖書・新約聖書という聖書がありますよと。そして回教であればマホメットという教える人がいて、コーランという教える材料があるのですよ。仏教はお釈迦様という教える人がいて、仏典・経典という教える材料があるのです。これが宗教なのです。

ところが神道は誰が教えたというものがないということです。誰もいない。そして教える材料も何もないのです。

よく「祝詞が挙がるじゃないか。神社へ行くと祝詞を挙げてくれるよ」といわれますが、祝詞は教える材料ではなくて、皆さんの願い事であるとか、その願い事を叶えてくれたときのお礼として、神様に奏上するものなのです。
教える材料ではないのです。そういった意味では神道には教えたという人もいなければ、教える材料もありませんよということです。

要するに宗教というのは「教えるのを宗とする」と書くわけですから、そういうことには神道は該当しないということになります。

宗教でないのなら、神道とは何だろう。いわゆる茶道であるとかお花の華道とか、匂いの香道とかあるいはスポーツでも柔道とか剣道というふうな道の付くどうというのが多いけれども、神道の場合は濁らないのですよね。しんとうという、どうとは言わない。

神道とは、「神の道」と書くわけですね。
神の道というのは何だろう。

神の道は、別の字では「神の径=神経」とも書きます。私達の体中に通っている神経、それがあるから身体が動いたり、いろいろな事を感じたり、人としての動きが出来ます。私は、「神道とは、生かさせて頂く偉大なお力そのもの」と思っています。

太陽も、水も、空気も、大地などの大自然そのもの、そして人の体内を形作る細胞の働きや体内の絶妙な働き、普段あるときには、あることにすら気がつかないほど自然で、しかし人が生きていく上で欠かすことの出来ないお力そのものを神の径(みち)が繋ぎ、人や生き物に通わせて下さっておられるのです。

「人は、生かされている」といいますが、本当は「生かさせて頂いている」
その偉大なお力そのものを神道というのです。
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第65話の続きです。

 さらによくよく注意をして見てみますと、古事記では伊邪那岐の神様は「あなにやしえをとめを」と言い、伊邪那美の神様は「あなにやしえおとこを」と言ったことになっておりますが、秀真伝(ほつまつたえ)では伊邪那岐の神様は「あなにゑや 美し少女に会いぬ」と言い、伊邪那美の神様は「わなにやしうまし男に会いき」と言われたことになっています。

 この最初の言葉が、古事記ではどちらも「あ」であるのに対して、秀真伝では伊邪那岐の神様の場合は「あ」ですが、伊邪那美の神様の場合は「わ」になっています。「あ」は「天」を意味し、「わ」は「大地」を表すのです。また「あ」は「男性」を表し、「わ」は「女性」を表します。

 ですから、秀真伝の別のところには、男女の交わりについて、「女性は大地として天を仰ぎ、男性は天として大地に向かって」交わるようにという部分があります。「あわ」として、「天地」と「男女」を表しているのです。

 男性は天、女性は大地を表すということで、女性は大地から天を仰ぎ、男子は天から大地を見よということで、これが男性と女性の正しい結び合わせ方なのです。だから、女性が上を向いて、男性が上から下を向く。こういう結びで子供が産まれまるということです。最近はいろいろ好き勝手な形を取って快楽に耽っているようですが、神様の教えはそうではないのです。

 男性は上から下、女性は下から上を見上げるという形で結ばれるのがよい、こういうことまで全部神様の教えの中に入っているのです。

 こうした点も、古事記だけでは理解出来かねるところです。これは正しく言い直された方のことを先に述べましたが、ここのところも最初は伊邪那美の神様は「あなにえや、ゑ男」と言い、伊邪那岐の神様は「わな嬉し、ゑ少女(おとめ)」と言われたのです。このように伊邪那美の神様が「わ」と言うべきところを「あ」と言い、伊邪那岐の神様が「あ」と言うべきところを「わ」と言ってしまっていたのです。

 「あ」と「わ」が入れ替わっていたのです。これは天と地がひっくり返ったことを意味します。天と地がひっくり返ったのですから、正しい子供が出来る訳がないのです。これが三番目の間違いです。

 そして四番目には、男性のものと女性のものが反対になっていたということです。「あ」というのは天と共に太陽をも指し、男性が太陽にたとえられるのです。先程も申し上げましたが、日の精霊と書いてこれを「うる」と読み、「日精(ひうる)」と言います。女性は大地と共に月をも指し、女性が月にたとえられるのです。月の精霊と書いてこれを「なみ」と読み、「月精(つきなみ)」と言います。

 要するに、男性である伊邪那岐の神様が、魂として月精(つきなみ)という女性のものを受けてしまい、女性である伊邪那美の神様が、魂として日精(ひうる)という男性のものを受けてしまったのです。この点においても、正常な子供が得られないということになります。これが四番目の間違いです。
 そうして五番目に、回り方をも間違えたということです。男性が左回り、女性は右回りでなければならないのに、これを逆に回ったのです。

 この点も古事記では省略されています。女性から先に声をかけたのがいけなかったのだという一点だけに絞ったものですから、他の四つのことは全部正しいものとして書いていますが、実際にはこれだけの過ちをしていたのです。

 男性の方が左から、女性が右から回ること。そして出会った所で言葉を交わす。それも男性から声をかけなければいけないのに、女性から先に声をかけてしまった。また掛けた言葉が「五四調(いよのしらべ)」になっていた。さらに言葉のかけ方が「あ」と「わ」を入れ替えていた。そのために天と地が入れ替わってしまっていた。その為に、受けるべき魂についても、男性は太陽になぞらえて日の精霊、女性は月になぞらえられて月の精霊を受けるべきところが、逆になってしまったという。こういう五つの間違いがあったのです。

 ここで大事なのは、最初に申し上げたように、まず間違っていた時には、どこが間違ったのかという『見直し』をすることです。自分自身が反省をすることが大事ですよ、という教えです。
 神様でさえ間違いをされることがあるのですから、まして人は、一つの間違いもせずに人生を過す事など出来ないはずです。だからこそ失敗したその時にどうするかということが大事です。

 間違いを間違いのまま、放置してしまっては、先に行くほどその問題は大きくなったり、同じ過ちを何度でも繰り返すことになってしまうからです。

「仏の顔も、三度まで」という言葉がありますが、神様も人の(同じ)失敗は、二度まではお許し下さっても、三度目は大変に厳しい目でご覧になられます。

よく失敗をすると、「すみません」「ごめんなさい」と頭を下げて、ひたすら嵐の収まるまで待つという人がいますが、「なぜ、その失敗をしたのか」「それを繰り返さないためには、どうしたらいいのか」の見直しや気づきがないと、何度でも同じ事を繰り返してしまうとは思いませんか。
 
 だからこそ、失敗をしてしまったときには、まず『見直し』をする。そうしていくら自分で考えてみてもわからない時には、親や先生や上司や先輩等信頼の置ける人に聞きなさいということで、次は『聞き直し』をする。ですから、伊邪那岐・伊邪那美の神様も高天原へ行って、高御産霊神様にお伺いをされたのです。

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伊邪那岐・伊邪那美の神様の国生み伝説のことをもっと詳しく知りたいというご要望がたくさんありました。
前話と若干重複するところはありますが、今回は、二神様がご自分達の失敗の理由とこれからは、どうしたらよいかをお伺いするために高天原に行かれた時のことを少し詳しくお話ししたいと思います。

お二人が結婚してはじめに産んだ子供は、背骨のないぐにゃぐにゃな子(ひるこ)でした。
 そこで、伊邪那岐・伊邪那美の神様は、どうなさられたかと言いますと、伊邪那岐・伊邪那美の神様は天津神様ですから、高天原へ行って、造化三神の二番目の神様である高御産霊の神様に、「自分達が産んだ子供は、ひ弱な子でうまくいきませんでした。どこが間違っていたのでしょうか。どうすればよろしいのでしょうか」とお聞きになられました。

 そうしましたら、「女性から先に声を掛けたのがいけないのだ」というお返事でした。現代の社会では、「男性から声をかける」などと言うと、いろいろと文句を言う人も多いかもしれませんが、神様はあくまで「女性から先に声を掛けたのがいけないのです」と言われたのです。

 これは、何も「男尊女卑」という意味ではありません。男性を「木」にたとえ、女性を「実」にたとえたように、ここでは男性を「日」にたとえ、女性を「月」にたとえているのです。そして、日の精のことを日ウルと言い、月の精のことを月ナミと呼んでいます。そうして、太陽である日を中心にして月が巡っているという宇宙原理に基づいて、男先女後が天の運行に最も調和しているという考え方によるのです。

 「だから、男性の方から先に声を掛けるようにしなおしなさい」と言われたので、お二人の神様は今一度天の御柱を巡って、今度は伊邪那岐神様の方から先にお声を掛けるようにされたのです。

 これが古事記の物語なのです。古事記ではそういうふうに、「女性から先に声を掛けたのがいけなかったのだ」という、この一点だけが取り上げられています。

 実際にはいくつかの間違いが指摘されています。他にどういう点が違っていたかと言いますと、まず伊邪那美の神様と伊邪那岐の神様がお掛けしたお言葉が異なっているのです。古事記では伊邪那美の神様は「あなにやし、えおとこを」と言い、伊邪那岐の神様は「あなにやし、えをとめを」と言ったことになっており、「あなにやし」までは同じであったことになっています。

 ところが、「秀真伝(ほつまつたえ)」によりますと、伊邪那美の神様は「あなにえや、ゑ男」と言い、伊邪那岐の神様は「わな嬉し、ゑ少女(おとめ)」と言われたことになっております。「少女」と書いて「おとめ」と読ませています。

この点についても、二度目には伊邪那岐の神様の方から「あなにゑや うまし少女に会いぬ」と言い、伊邪那美の神様が「わなにやし うまし男に会いき」と言われたのです。

 この点をよく見てみますと、古事記の方では「あなにやし」「えおとこを」、「あなにやし」「えおとめを」というように、五文字と五文字になっています。五五になっています。

 ところが「ホツマ伝」の方の一回目では、「あなにえや」「えおとこ」、「あなにえや」「えおとめ」となっています。五文字四文字になっています。五四になる。これを、「ひふみよ」で行くと「四」は「よ」ですから、「五四(いよ)」になりますが、「五四調(いよのしらべ)」では駄目ですよ、とこういうふうになっているのです。

 神様の世界では、このことを「五四の歌 事を結ばず」と言って、五四の歌では物事が成就しないとされているのです。したがって、この点も「あなにゑや」「うまし少女に会いぬ」、「わなにやし」「うまし男に会いき」というように、五と十にし、「五十調(いそのしらべ)」に訂正したのです。このように五四調で歌ったのが、二番目の間違いということになります。

 この辺は古事記では全然出ておりませんので、言葉掛けの内容についてはそのまま二回目も同じ言葉掛けをしたということになっています。要するに、二神様の間違いは「女性から声を掛けたのがいけない」という一点だけに絞っています。
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伊邪那岐・伊邪那美神様(イザナギ・イザナミの神様)は、天の沼矛でかき回して、はじめに出来た小さな島に降り立ちました。それをオノコロ島といいます。

そしてそこに太い大きな柱、天の御柱(あめのみはしら)を立てました。そしてお二方の結婚のための宮殿も建てられました。
その建物を八尋殿(やひろでん)と言います。人の両手をひろげたものが一尋ですから、その八つの大きさの殿を作ったというので、八尋殿と言うのです。

お二方は、そこで結婚することになりました。その時に伊邪那岐神様が、伊邪那美神様に『そなたの身体はどうなっておるか』とお尋ねになりました。すると、「吾が身はなりなりて、成り合わざるところ一処あり」とお答えになられたので、伊邪那岐神様は「自分はなりなりて、なり余れるところがある。自分の成り余っているところで、あなたの足りないところを塞いで、それで国生みをしよう」という話になっています。男性と女性の身体の違いを、一言で語り合っています。

そして天の御柱を伊邪那美神様は右回りに、伊邪那岐神様は左回りに回ることにし、巡り会ったところでふたりは結ばれようということになりました。二神様は、天の御柱を巡り、そこで互いに声を掛け合います。まず伊邪那美神様から「何とまあ、素晴らしい男性でしょう」と声を掛け、その後で伊邪那岐神様が「何と美しい娘だろう」と声を掛けたのです。

そして御子をお生みになられたのですが、その御子は水蛭子(ひるこ)という名前の、背骨のグニャグニャした弱い子でした。

それで、この子は葦船に乗せて流しました。子供を葦船に乗せて流し、改めて拾い上げて育てるという話は、世界中のいろいろなところに伝説として残っていますが、この時は金析(かなさくの)神様が拾い上げたので、拾うた神様=広田神様・広田神社と呼ぶようになったとされています。

しかし、なぜそんなひ弱な子が生れたのでしょうか。伊邪那岐神様と伊邪那美神様はお二方でいろいろと考えてみましたが、よく分りませんでした。そこで高天原まで行って貴い神様に聞いてみると、「何とまあ、素晴らしい男性でしょう」と、女性から先に声を掛けたのがいけなかったということでした。

さらに「秀真伝(ホツマツタエ)」では、男性が右から回り、女性が左から回るべきだったと、天の御柱の巡り方も違っていたとされています。伊邪那岐・伊邪那美神様は、改めて天の御柱を正しい巡り方で、回り直して男性から声を掛け直したところ、次に生れた子供は、健康な子供だったということです。

(注)秀真伝(ホツマツタエ)とは、神様の世界の事を書かれた書物で、
   古事記よりもずっと以前に神代文字で書かれたものです。

要するに、間違ったことをしたということです。男女平等で、最近は女性の方が積極的になっていますが、特に結婚の時に、どちらから声を掛けるかは、神様の世界でも大切なこととして残され、やはり男性から声を掛けるべきだとされています。それを間違えたから「弱い子が生れた」と言われると、現在は「ドキッ」とする人が多いかもしれませんね。

このことは、「国生み伝説」の中でも、「見直し、聞き直し、言い直し」という大切な教えとなっています。人生において壁にぶつかったときや、困難なときに、「どうしてこうなったのだろう」という『見直し』をし、分らぬ時には、先輩や先生、あるいは上司や両親に聞くという『聞き直し』をし、分ったときには改めて「こうするぞ」という宣言、つまり『言い直し』をすることで、正しい方向への切り替えが出来るという大切な教えです。

神道では、『念と言霊』と言って、同じ事をするにもどう思ってするかが大切です。とは言え、心で「あぁ、いけなかったんだ。次からは改めよう」ではなく、「すぐに行う」、そして「言葉に出して宣言をする」と言うことが、物事をいい方向に動かす大切な力になるのです。

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