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天照大御神様は、岩戸から出て来られて、今まで真っ暗だった世の中が、急に明るくなりました。

そして神々様は、喜びのお言葉を発しられました。
『天晴れ(あっぱれ)、あな面白(おもしろ)、あな手伸し(たのし)、あな清明(さやけ)おけ』と。

「天晴れ(あっぱれ)と言うのは、その字の通り、今まで真っ暗闇だった世界が、天が晴れたように明るくなったということです。

あな「面白」とは、「人々の面(顔)が光を受けて白く映っているよ」という意味です。あな「手伸し(たのし)」、この手伸しいという字、今は「楽」と言う字で「楽しい」と読みますが、このときの「手伸し」は、子供さんがお母さんを見つけたとき、両手を伸ばしてお母さんに飛びついていく、その喜びの姿勢が、「手伸し」です。そう言う全身の喜びを表わす意味なのです。

「手」は、「た」と読みます。手力男神様も、「たじからおの神様」と申し上げます。岩戸の陰から、天照大御神様を岩戸よりお引出しになられた神様です。

そして「あなさやけおけ」というのは、清らかに明るい。なんとさわやかで清らかなことよという意味です。このように神々様は、お喜びになられたのです。

ところがこの「天晴れ」が平安時代になると、「哀れ」になったのです。国文学者も、「ものの哀れ」というふうになっています。天晴れが何で哀れになったのか。それは中身の「しみじみと思う」というのが、本来の意味なのです。あっぱれとは、しみじみとそう思うという、このしみじみとが、しみじみと哀れを感じると言うふうに移っていったのです。

しかし、神様はのように『天晴れ、あな面白、あな手伸し、あなさやけおけ』というふうにお喜びになられたのです。

ところで「現代の天岩戸を開く」にはどうしたらいいのでしょうか。

古事記の話に戻りますが、天照大御神様がお出ましになるとき、どういうことをなされたかということですね。神様の世界でも、知恵の神様と言われる思兼神様が、最高責任者として、神々様は行動なさられました。

まず常世の国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、次に天の安川の川上にある硬い石を取り、鉱山の鉄を取ってきて鍛冶の天津麻羅と伊斯許理度売(いしこりどめ)に鏡を作らせました。

次に玉祖命に多くの勾玉を長い緒に貫き通した玉飾りを作らせました。そして次に春日大社の天児屋根神様と、布刀玉の神様をお呼びになって、天の香具山の雄鹿の肩の骨を抜き取って、同じ天の香具山の朱桜(かにわざくら)を取って、鹿の肩の骨を焼いて占わせ、祭式の次第を準備させたのです。

まず天香具山の良く繁った榊を根こそぎ取ってきて、その上の方の枝に玉飾りを付け、中程の枝に八たの鏡を架け、下の枝には、楮(こうぞ)の幣と麻の青い幣を下げ、その榊の前で天児屋根神様が貴い祝詞を奏上しました。

そして、うずめの神様がたらい桶を逆さまにして、その上で面白おかしく踊り、それを見ていた神々様がどっと笑ったということが、古事記には書かれています。

天照大御神様は、自分が岩戸に隠れて世の中が真っ暗になって、さぞみなが困っているであろうと思っているところに、豪い賑やかに騒いでいるのを不審に思って、一体何事かと、中から声をかけると、「貴方様よりも偉い神様がいらっしゃったので、お祝いをしているのです」。「え?自分より偉い神様がいるの」と、ちょっと開けたところを、手力男神様がさっとあけて、岩戸からお出ししそして早速にそこへ注連縄を張って、「二度とここへお入りになられませんように」と言われました。

そこで注連縄というのは、そういう聖地をあらわすということが一つと、もう一つは二度とここへ入ってはいけませんよという結界を表すという二つの意味があるのです。

現代の状態はどうでしょうか。世の中が真っ暗になって、悪いものがうるさいほどにはびこっている、そして殺人が日常化してきて、ニュースで聞いてもあまり驚かなくなってしまいました。
ですからこういう現代の状態で、天岩戸を開くには、どうしたらいいかと言っても、天岩戸を開く人がいないのですよね。

それぞれの神様が、思兼神様を中心として、天岩戸を開く為に知恵を出し合ったのです。個々の思いを出したりするのではなく、岩戸を開いて天照大御神様に出て来て頂き、世の中を明るくすることに神々様はお心を一つにして行動されました。

今は知恵を出し合うのではなく、くだらない頭で、いかに足を引っ張るかということしかやらないのです。今の民主党と自民党を見ていればよく分かると思います。そうでしょう。民主党から分裂した人達もそうですね。

「国民のために」と言うのは、口先だけであって、中身はいかに相手を引きずり落とすか、気にいらなければ審議にも出ないよという。審議に出ないのなら、職務専念義務違反なのだから、月給は返せと言いたいですが、月給だけはたんまりと持っていくのですよね。審議にも応じないのなら、払う必要ないのですよ、本当は。そう思わないですか。国民の皆さんが大人しすぎるのですよ。そういうことで、その知恵を出し合うというところから先ずはじめないと無理ではないかと思います。

それぞれの神様が、祝詞を上げる神様は祝詞を上げる。鏡を作る神様は鏡を作るというふうに、それぞれの持ち場、持ち場を、確実にこなしていった。そして目的のためにみな神々が心を一にした。それぞれの神様が知恵と力を出し合った。それぞれの持ち場を確実にこなした。目的のために心を一つにした。どれも該当しないんですよね、現代の政治家と言うものは。そうすると天岩戸は開かれませんよと言うことになります。

現在はむしろ自分の役目も自覚できない。政治家も神主も教育者も母親も。どうでしょうね。先ず自分は何をすべきかと言うところから自覚をするしかない。
「人のせい、世の中のせい」にしていますが、そうではなくて、すべて自分一人一人の責任なんだよというところに気付いてほしいのです。そうでないと世の中は、良くなりませんよと言うことです。
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天照大御神様は、日本の最高の神様であり、伊勢神宮にお祀りされている神様であるということは、皆さんもご存知と思います。では「天照大御神様のご神徳は、どのようなことですか」とお尋ねしますと、案外答えにくいのではないでしょうか。

神様には、それぞれお役目があり「知恵の神様」や「武神」「商売の神様」など、受験の時にお願いするとよいと言われている神様や、剣道・柔道などの稽古や試合の時にお願いする神様、商売繁盛を願ってお参りする神様などは、なじみがあると思いますが、天照大御神様はそうした願い事をする時には関係がございません。個々の願い事と言うよりも、国家の繁栄やご皇室の弥栄えなど、天下国家のことを願う神様だからです。

にもかかわらず「一生に一度は、伊勢参り」と言う言葉があるくらい、かつて伊勢講などで、徒歩で何ヶ月もかけてお参りをしていました。そのくらい日本人にとって特別の神様です。

西行法師は、五十鈴川の向こう側から、『何ごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる』と詠い、トインビーは、伊勢神宮に参拝して「ここに全ての宗教の原点がある」と言われたそうです。

一般に言われるご利益(ごりやく)を求めてのお参りではなく、日本人の魂の故郷といえるのではないでしょうか。

そしてご神徳が、わかりにくいのはあまりにも大きなご存在だからです。天照大御神様は、太陽神になぞらえられますが、太陽の恵みやありがたさがあまりにも当たり前すぎてわかりにくいのに似ています。

よく天の岩戸伝説の話でお話しをしますが、天照大御神様が弟のスサノオの神様のあまりの乱暴にお怒りになられ、天の岩戸に隠れ、ぴったりと岩戸の扉を閉めてしまった途端に、今まで明るかった世の中が真っ暗になり、悪い者たちが騒ぎ出したというお話しがあります。

神々様は、天の安河原に集まって会議をし、何とか天照大御神様に岩戸から出て来て頂く方法をご相談されました。

そして天の岩戸の前に、篝火を焚き、天のうずめの神様という名の女神様が、賑やかに、たのしい踊りを踊り、周囲で見ている神々様もそれをはやし、楽しげにどっと笑ったために、岩戸の中の天照大御神様は不審に思い、岩戸をほんの少し明けて「うずめよ、うずめ、私が岩戸の中に隠れ、世の中は真っ暗だというのに何をそんなに楽しげに騒いでいるのですか」と尋ねました。

うずめの神様は「あなた様より貴い神様が来られたのでそのお祝いに舞を舞っているのです」とお答えになりました。

天照大御神様は、「私より貴い神様とは、どんな方だろう」と思われ、岩戸より少し顔をのぞかせて、目の前に出された鏡をのぞき込んでご自分の顔をご覧になったところで、手力男の神様という力の強い神様が天照大御神様の手を引いて岩戸より外にお出ししました。

今まで暗かった世の中は、一瞬にして明るくなりました。神々様は、岩戸にしめ縄を張り、「天照大御神様、もうどうか二度と岩戸にお入りにならないで下さい」とお願いをしました。 

日本には、八百万の神様(やおよろずのかみさま)がいらっしゃると言われ、岩戸の前にも大勢の神様が集まっておられました。しかし八百万の神様すべてを合せたお光りも、天照大御神様お一方のお光りには、はるかに及ばなかったということを表わしています。

ちょうど太陽と星の関係のようなものと思って頂いたらよいのではないでしょうか。たくさんの星があっても、世の中は明るくなりませんが、太陽が出てくればそれ一つで世の中を明るく照らすことが出来ます。

世の中を明るく照らす、人の心や魂、そして人生を明るく照らす、国の将来を明るく照らすということと思います。

だから日本人の魂の故郷なのではないでしょうか。
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お盆の場合には、お彼岸の時と違って、修羅界・餓鬼界・畜生界の他に、地獄界からもご先祖の方々が戻って来られます。
しかも、お墓にではなく、お位牌にお懸かりの高いところにいらっしゃるご先祖の方から、直接いろいろとお話を伺うことの出来る大切な時です。

特に地獄から帰られる御霊にとりましては、そうした方からのお諭しやお話を伺えるだけでなく、お食事を頂くにしても、まさに年に一度の機会です。
ですから、十二分に身・心・霊共に癒して頂くと共に、また高き世界へとお遷り頂く絶好の機会でもあるのですから、お供養の方もそれに相応しいだけのものを、十二分にさせて頂こうではありませんか。

まず、十三日の迎え火・十六日の送り火の時には、『おがら』を焚くわけですが、これは必ずしも『おがら』でなければならないというものではありません。

なぜ『おがら』を焚くかと言いますと、「ご先祖の方をお迎えするために、どの木の枝でもよいから、木を燃して迎えなさい」と言いますと、ご先祖のお供養に関わることですので、皆さんが一生懸命に木を伐ってきてそうされるでしょうが、それでは新しい木を伐ってしまうことになります。

それでは、残念ながら地獄のような低きところから帰ってくる人達のために、大切な木を伐ることは憚れるということから、すでに用済みとなったおがらならばいいであろうということで、おがらを燃して灯をともし、それでお迎えをするようになったのです。

ですから、読み終わった使い古しの新聞紙でもよいのです。
灯りを灯すという点で、ローソクということも考えられますがローソクの灯は、もっと暖かいものであり、清らかなものですので、迎え火・送り火に使うのは違うということです。

ローソクの場合は、魂が宿っているものに対して致しますので神棚やお仏壇の方で使うのです。それは、一定の方向というか、そうした御霊に対して灯すものですから、ポッと暖かくなるものです。

それに対して、おがらを燃して灯をともす時と言いますのは、あちこちに向けて燃やし、「全方位に向けて、お迎えしていますよ」という意味があります。

 「何々家のご先祖様、この灯りを目印に、どうぞこちらへお出で下さい」
 とお呼びかけをし、
「遠路ご苦労様でした。どうぞ、お入り下さい」
と、お声をかけて差し上げて下さい。

一般には、仏壇の前に小机を置き、真菰かすのこを敷いて『盆棚』を作り、位牌を仏壇からこの盆棚の上に移し、お盆の間は仏壇の扉を閉めておくとされています。

たしかに、低いところから来られたご先祖様によって、せっかくお位牌に入っておられる高いご先祖の方々のお住居が汚れ穢されるのはご免だという考えもありますが、低いところから来られたご先祖の方にとっては、年に一度のことですから、高きところのご先祖の人々も、このお盆の期間に、いろいろとお諭をされるのです。

ですから、お位牌はそのままにされて、むしろ普段は夜には仏壇の扉をお閉め致しますが、この期間中は夜も扉を開けておかれる方がよいのです。

お盆の時に、お野菜でお馬や牛を作ったり、いろいろと飾りつけをするのは、神様の方で定められたことではありません。人の側で、先祖の方をお迎えするという真心としてされたことが、風習として伝わって来たということです。

ですから、玄関先などに、長い道中を旅して来られた先祖の方の足を濯ぐお水や手拭いを用意して差し上げるとか、各家々において、わが家の出迎え方というのを創意工夫されるとよいでしょう。

現在の風習も元はと言えば、そうして出来上がったものなのです。
「家ではこうしているのよ」とか、
「家はこうだわ」
とか、皆さんがそれぞれの方法を言っている間に、そのよさそうなところを真似ている間に、いつの間にか風習のように伝承されていったのです。

お盆の期間のお供え物も、それぞれの家筋によって、先祖の方の好きであったものとか、そういったものをさせて頂くのがよいのですが、皆様がご先祖様のためにと、いろいろご馳走を造ってお迎えするのは、少し意味が違うようです。

少なくとも十三日の日には、余りご馳走は作りません。それと言うのも、低き方々は、ほとんど絶食状態でいるのです。いわば断食をしているのですから、急に硬いご飯やご馳走を食べると、却ってお身体をこわしてしまわれます。
 ですから、昔の人が召し上がった粟や稗の入ったお粥とか、柔らかいご飯を用意して差し上げる方がよろしいのです。

十四日には、食べ物に特に制約はありませんが、例えばヒジキの煮たようなものとか、お芋の煮っころがしとか、いわゆるおふくろの味とか母親の味という形で、その家の味とでも言うのでしようか、そういう家庭の暖かさを本人が思い出すようなお料理がよいのです。
 その味を味わいながら、「ああ、懐かしいなあ。わが家の味だなあ」などと思い出しながら、「どうして、自分はこういうことになったのだろう」と本人が反省するあるいは気づく、そういう機会を持つことが大切なのです。そういう家庭料理がよいのです。

一般には、『暖かい物』を差し上げるという言い方をされますが、物の暖かいか冷たいかを云々するのではなく、『残り物はお出ししない』ということなので、冷たいおソーメン等をお出しするのは結構なのです。
むしろ夏場の暑い時ですから、こちらの側で真心を込めて、
「冷たいものをお召し上がり頂こう」
というのでお作りするものはよいのです。
それは、各家庭においても、夏場はそうした冷たいものを頂きますので、そういった中での一つとして召し上がって頂くのでよいのです。

そうして、この間のお言葉がけが大切なのです。
 十三日には、ねぎらいの言葉、慰労の言葉がけが大切です。
 「遠いところを、ご苦労様でした」とか、
 「長い間、ご苦労様でした」というねぎらいの言葉と、
 「皆さんは、長い間お腹をすかしておられたでしょうから、柔らかいものをご用意させて頂きました。どうぞ、ごゆっくりとお召し上がり下さい」とか、
 「わが家にお戻りになられたのですから、安心しておくつろぎ下さい」
 というようなお言葉をかけてあげるのがよいのです。

十四日の日には、「恨みの念や悔しいとの思いをお取りになることが大切であること、こうした念や思いが、ずっしりとした重みとなって、結局ご自分を低いところに落としているのだ」というようなことをお話してあげるのがよろしいのです。

もちろん、お位牌にお入りになっておられるご先祖の方々も、いろいろとお話をして下さっているのですが、ご子孫の皆様からのお伝えが、何よりの功徳となるようです。

もちろんその前提としては、先程の怨念を取るとか、恨みや痛みの心を取ることはもちろん、感謝の気持ちが神様の支えの条件になっているのですから、いかに感謝の気持ちが大切であるかを説いて差し上げて下さい。

但し、ここでは十分にご注意頂きたいことがあります。それは、こうしたお話しかけやお諭しあるいはお食事を差し上げる時の、私達の心構えです。

私達は、無意識のうちにも、ついつい「教えてやるんだ」とか「してやるんだ」という気持ちが働いていることがあります。

私達は、いかなるご先祖様であろうとも、そうしたご先祖様がいらっしゃったお蔭で、今日この世に存在しているのです。

このうちの、どのご先祖様が欠けられても、私達は存在し得ないのです。であるならば、いかなる事情で低きところに行かれておられましょうとも、
「皆様方がいらっしゃって下さったお蔭で、私達は今日こうして暮らさせて頂いております。本当に有り難うございました」
と、心より申し上げて下さい。

 すると、長い間苦労をされ、人々からも相手にされていなかった人達からは、
 「えっ、自分達にも礼を言ってくれる人がいるんだ」
 と、改めて驚かれると共に、自らの存在に気づかれて、感涙に咽ばれます。その上で、

 「ご先祖様からご覧になれば、幼稚園児にもみたぬ私達ですが承るところによりますと、こういうようにされるとよろしいと伺ったものですから、お話をさせて頂きますが、・・・」
 と、飽くまでも先祖を敬い、自らは謙遜の気持ちでお話しかけをして頂きたいのです。そう致しますと、先祖の方も身を乗り出して聞き入って下さいます。

そして十五日になってはじめて、ややご馳走となるものや、ほんの少しのお酒、そして塩小豆(浄化に良いと伺いました)などをお供えして差し上げると良いのです。

そして十六日の送り火の前にも、心を込めて食事を出して差し上げて下さい。
大事なことは、送り火にて必ずいったんは、元いた所に帰って頂くということです。
そして、帰られたら二三日のうちに、管を通って高いところへと行くようにして下さい。地獄の方でもお盆の期間に高い所に行ったご先祖の方から聞いたお話と、私たちのご供養で、気がつかれた方は、この管を通って地獄から抜け出すことが出来ます。この管は、一週間程でなくなりますから、なるべく早く行くようにして下さい。

お盆の時期は、地獄に堕ちた方でも、救われる年一度の機会です。どうぞ心を込めてして差し上げて下さい。

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お盆の時期には、迎え火を焚いて亡くなったご先祖様をお迎えします。
地方によって七月と八月のお盆がありますが、共に十三日の夕刻から、十六日の夜までがお盆の期間です。

一般には、「亡くなったご先祖の方が、皆、帰って来る」と思われています。しかしそれでは、家にある、あのお位牌(正しく位牌にご先祖の魂が入っている場合)にいらっしゃるご先祖様はどうなるのかということになります。

実は、お位牌には、ある程度高い位のご先祖様しか入る事が出来ません。ですから残念ながらまだお位牌に入る事が出来ない(あの世の低いところ行った)ご先祖様をお迎えするのです。

またお盆の時期は、「地獄の釜の蓋が開く」とも言われます。年に一回だけ、地獄に落ちた人でも、その地獄の釜の蓋が開き出てくることが出来るのです。

そのご先祖様を、迎え火を焚いて各家々でお迎えして差し上げます。
こう言いますと「なんだそんな地獄に堕ちたような人なんか、家に入れたくないよ」という方もいらっしゃるかもしれませんが、もしそれが自分のお父さんやお母さんだったらどうしますか?

仮にどんなご先祖様であったとしても、そのご先祖様のお一人が欠けても今の自分はいないのです。自分を大事にすることは、親やご先祖様を大事にすることであり、親やご先祖様を大事にすることは、自分だけでなく、子供や子孫にまで良い流れとして繋がっていくのです。

現在は、週休二日が当たり前になってきていますが、かつて丁稚奉公などに出ると、お正月とお盆くらいしかお休みを頂いて親元に帰ることが出来ませんでした。お盆は、それだけの意味があったからです。家に帰るとおそらく一番にお位牌に手を合わせていたのではないでしょうか。

今のお盆休みは、以前とは比べものにならないくらい長くなりましたが、ご先祖様のことに使うのではなく、海外に行ったり、自分達の遊びだけに使う人が多くなってはいないでしょうか。

迎え火、送り火をしているところは、あまり見かけなくなりました。毎年、あの世から出て来たご先祖様は、残念ながら子孫の家に迎えて貰えないのだなと気の毒な気持ちになってしまいます。

「そんなことは、昔のことだ、自分達とは関係ない」と思うかもしれませんが、
 実はこの世に生きている私達の世界にも、同じようなことが起きています。

結婚した息子夫婦の家に、親はなかなか受け入れて貰えない。「子供に面倒かけたくないの」という言葉の裏腹には、心から息子や嫁に家族として受け入れてもらっていないことを感じているからではないでしょうか。

そう。あの世と、この世は、写し鏡のようになっていて、写し世とも言われているのです。

自分達が、あの世のご先祖様をお迎えしないで、知らんぷりをしていると、自分達も子供や孫達から、同じような目にあわされる可能性は高いのです。

昨年の東北大震災以降、日本人に一番受け入れられる言葉は「絆」という言葉だそうです。親との絆、家族の絆、ご先祖様との絆をもう一度蘇らせるためにも、お盆の季節、ご先祖様を是非大切にして差し上げて下さい。

今日の一言は、広島原爆に寄せて です。
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